CINÉMONO(シネモノガタリ)第十八話「アヌジャ」

CINÉMONO(シネモノガタリ)第十八話「アヌジャ」

 京都に雨が降っていた。アンナは窓辺に立ち、ベロアのジャケットの襟に触れた。古いインド刺繍のポーチと金糸のブローチ。異なる時間を生きてきた布が、いま自分の身体の上にある。インドからイギリスへ渡った祖父と、ポーランドから来た祖母。その娘である母と、日本人の父のあいだに生まれたアンナは、自分の中にいくつもの土地があることを、不思議に思わなくなっていた。

 リュカが訪ねてきた夜、二人は『アヌジャ』を観た。九歳の少女アヌジャは、姉とともに縫製工場で働いている。ある日、学校へ進む機会が訪れる。それは未来へ続く扉だった。けれど、その扉をくぐれば、姉を残していくことになる。未来を選ぶことが、誰かを置き去りにすることになってしまう。

 映画が終わってもしばらく、二人は何も話さなかった。「どっちを選んでも、間違いじゃないんだよね」と、やがてリュカが言った。「でも、どっちを選んでも、何かを失う」。アンナは祖父を思った。インドを離れてイギリスへ渡ったとき、祖父は何を置いてきたのだろう。移住という言葉の途中には、帰れなくなった場所や、言葉にできない別れがある。

 リュカの父方の祖母も、モロッコからフランスへ渡った。日本人の母とのあいだに生まれたリュカは、京都で暮らし、音楽をつくる。どこの国とも言い切れない音だった。「僕たちは、生まれる場所も、受け継ぐものも選べないんだね」とリュカが言った。「でも、それをどう残すかは選べる」。

 アンナは胸元の刺繍を見た。誰が、いつ、どんな場所で縫ったのかは知らない。ただ、細い糸が重なり、ひとつの模様になっている。貧しさも、家族も、与えられなかった選択肢も、自分では選べない。それでも、目の前に現れた扉をどうするのか。その決断だけは、自分のものなのだ。

 リュカが音を流した。雨、車、遠くの話し声。その奥に、低いベースと電子音が重なっている。アンナは目を閉じた。インドでも、ポーランドでも、モロッコでも、フランスでも、日本でもない。いくつもの場所から来たものが、消えずに残った音だった。「混ざってるね」とアンナが言うと、リュカは「うん。でも、混ざったんじゃなくて、残ったんだと思う」と答えた。

 雨が上がり、二人は夜の京都へ出た。街灯を受けて、アンナのブローチが一瞬だけ光った。二人とも、自分が何者なのかを一つの言葉では説明できない。けれど、それでいいのだと思えた。選べなかった過去を消すのではなく、受け取ったものを、自分の時間の中で別の形にしていく。誰かが遠い国で選んだ道の先に、自分たちの今日がある。二人は歩き出した。

▼ この物語に登場する映画
『アヌジャ』(2024年/監督:アダム・J・グレイブス)

※ 現実にある出来事や映画、モノゴトから生まれた架空の物語です。物語とともに、お店の世界観や登場人物たちのコーディネートもあわせてお楽しみください。

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