いつかノコト vol.2
LIFETIME通信 14 August 2026
Ravintola Työ

ヘルシンキの夕暮れは、まだ夜になるには少し早く、しかし一日の仕事を終えるには十分に暗かった。アンナとリュカは、愛猫トキオを連れて、アキ・カウリスマキの『浮き雲』に登場する、映画の中にしか存在しないはずのレストラン「Ravintola Työ(ラヴィントラ・ティョ)」の前に立っていた。古びた扉。黒ずんだ壁。明かりの少ない窓。店の前に立つと、現実のヘルシンキにいるのか、それとも映画の中へ迷い込んだのか、二人にはわからなくなった。
「ここ、本当に営業してるのかな」アンナがそう言うと、リュカは答えることもなく、扉を開けた。店内には、カウンターの向こうにひとりだけ男がいた。男は二人と猫を見たが、特に驚いた様子もなく、少しだけ頷いて尋ねた。「二人?」アンナは猫を見下ろしてから返した。「三人です」男は少し考えてから、黙って三人分の席を用意した。
二人は窓際に座った。トキオはアンナの腕の中からテーブルの上を覗き込み、店内をじっと眺めている。メニューは数品と、コーヒー、ビール、それだけだった。リュカはコーヒーを頼み、アンナはスープを頼んだ。猫用のメニューはなかった。すると、厨房から出てきた女性が、何も言わずに小さな皿を一枚置いた。そこには、茹でた魚が少しだけ載っていた。「猫用?」アンナが尋ねると、女性は頷いた。それだけだった。
食事のあいだ、誰も話さなかった。外では、路面電車がゆっくり通り過ぎていった。窓ガラスがわずかに震えた。リュカはコーヒーを飲みながら、店の壁を眺めていた。「映画の中と同じだね」「映画の中だからね」アンナはそう答えた。リュカは少し考えた。そのとき、トキオが小さく鳴いた。
会計を済ませると、店を出た。「また来られるかな」リュカが言った。アンナは答えなかった。ただ、腕の中の猫を少し抱き直した。しばらくしてアンナが振り返ると、そこにはもうレストランがなかった。黒い壁も、古い扉も、何もない。あるのは、最初からそこにあったような、何もない建物の壁だけだった。「写真、撮っておけばよかったね」
リュカはポケットからカメラを取り出した。そして、二人と猫の後ろに残った暗い壁を一枚だけ撮った。シャッターの音が、誰もいない通りに響いた。
一週間後、現像から上がった写真には、アンナとリュカ、トキオの後ろに「Ravintola Työ」が写っていた。レストランの二人は、たしかにイロナとラウリだった。
※ 現実をもとにした架空の物語です。アンナとリュカは、今日もオンラインショップのどこかで活動しています。
Anna(アンナ)
1985年生まれ/160cm/56kg/脚本家/京都在住
インドからイギリスへ移住した祖父とポーランド人の祖母を持つ母と、日本人の父との間に生まれる。京都を拠点に脚本を書きながら、ドキュメンタリーや短編映像、ミュージックビデオなどの制作にも携わっている。人や街の何気ない瞬間を捉えることが好きで、特別な出来事よりも、日常の中にある光や音、表情に惹かれる。脚本を書くときには、物語だけでなく、その場の空気や映像まで自然と思い浮かべているという。流行よりも、ベーシックなものを長く愛用しており、自分の生活に自然と馴染むものを好む。京都で暮らすようになってから、撮影モデルとしてLIFETIMEに通うのが日課になっている。
Lucas(リュカ)
1985年生まれ/172cm/65kg/音楽家/京都在住
モロッコからフランスへ移住した祖母とフランス人の祖父を持つ父と、日本人の母との間に生まれる。京都で暮らしながら、ロック、テクノ、ジャズを融合させた環境音楽を制作している。音楽家としての活動はインターネット上に限られ、匿名のアーティスト名義で作品を発表している。海外にも熱心なリスナーがいるが、実際に彼の正体を知る人はほとんどいない。普段は穏やかで物静か。1950年代から1970年代に生まれたものや、その時代の空気を感じさせるものに惹かれる。服だけでなく、家具や道具、音楽に至るまで、そこに残る時代の匂いや佇まいを好む。制作の合間にLIFETIMEへ撮影モデルとして通っている。