CINÉMONO(シネモノガタリ)第五話「ギルバート・グレイプ」

CINÉMONO(シネモノガタリ)

 アンナにとって、永遠の憧れは映画『ギルバート・グレイプ』のベッキーである。ジュリエット・ルイスが演じる、少年のような短い髪と無造作な服装。自由奔放なのに、傷ついた人のそばでは不思議なくらい優しくなる。誰かの痛みにそっと寄り添える深い優しさと、その矛盾した強さに、アンナはずっと憧れていた。

 その日、モデル撮影のためお店を訪れたアンナは、ラックを眺めながら店主に言った。「ベッキーみたいな服、ないの?」店主はラックを見回した。「ピンクのストライプのサッカー地のシャツはないな。柄のワンピースもない。でも、白いバケットハットならあるよ」アンナはそれを被り、鏡の中の自分を見た。ほんの少し、ベッキーに近づいた気がした。

 「そういえばさ」と店主が言った。「この映画、私が十代で生まれ育った町を出て、二十歳で海外に出るきっかけになった映画の一つなんだよ」アンナは「へえ、そうだったんだ」と頷いた。何か確かなものがあったわけではない。ただ、知らない場所へ行ってみたかった。ベッキーもまた、どこかへ向かう途中の人だったのだと思った。

 店を出ると、アンナは白いバケットハットを被り、クラシックコミューターバイクにまたがった。この自転車を買ったのも、もちろんベッキーが乗っていたからだ。映画の中のトレーラーまで欲しいと思ったこともある。でも、さすがにそこまでは買えない。ベッキーは、それくらいアンナの生活の中に入り込んでいた。

 昼の河川敷は、夏の光で白く霞んでいた。風が帽子のつばを揺らす。アンナはペダルを踏みながら、目的地も決めずに走った。ベッキーなら、きっとこんなふうに走る。何かを探すのではなく、何かに出会うために。

 ふと、アンナは思った。欲しかったのは、ベッキーと同じ服ではなかった。ピンクのストライプも、柄のワンピースも、本当はどうでもいい。憧れていたのは、その服の中にいる人だった。自由なのに冷たくない。自分の人生を生きながら、誰かの傷を見過ごさない。強さとは、ひとりで立ち続けることだけではなく、ときには誰かの隣に座れることなのかもしれない。ふと、リュカの姿が脳裏をよぎった。

 アンナは河川敷を走り続けた。大きなポケットが付いている服があれば、バッグはいらない。ベッキーから受け取ったものは心の中にしまってある。自由でいること。知らない町へ出ていくこと。誰かの決めた道を歩かないこと。そして、自分の自由を守りながら、誰かの痛みに気づくこと。昼の強い光の中で、アンナは少し微笑んでいた。

▼ この物語に登場する映画
『ギルバート・グレイプ』(1993年/監督:ラッセ・ハルストレム)

※ 現実にある出来事や映画、モノゴトから生まれた架空の物語です。物語とともに、お店の世界観や登場人物たちのコーディネートもあわせてお楽しみください。

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