CINÉMONO(シネモノガタリ)第一話「浮き雲」

CINÉMONO(シネモノガタリ)第一話「浮き雲」

 ヘルシンキの夕暮れは、まだ夜になるには少し早く、しかし一日の仕事を終えるには十分に暗かった。アンナとリュカは、愛猫トキオを連れて、アキ・カウリスマキの『浮き雲』に登場する、映画の中にしか存在しないはずのレストラン「Ravintola Työ(ラヴィントラ・ティョ)」の前に立っていた。古びた扉。黒ずんだ壁。明かりの少ない窓。店の前に立つと、現実のヘルシンキにいるのか、それとも映画の中へ迷い込んだのか、二人にはわからなくなった。

 「ここ、本当に営業してるのかな」アンナがそう言うと、リュカは答えることもなく、扉を開けた。店内には、カウンターの向こうにひとりだけ男がいた。男は二人と猫を見たが、特に驚いた様子もなく、少しだけ頷いて尋ねた。「二人?」アンナは猫を見下ろしてから返した。「三人です」男は少し考えてから、黙って三人分の席を用意した。

 二人は窓際に座った。トキオはアンナの腕の中からテーブルの上を覗き込み、店内をじっと眺めている。メニューは数品と、コーヒー、ビール、それだけだった。リュカはコーヒーを頼み、アンナはスープを頼んだ。猫用のメニューはなかった。すると、厨房から出てきた女性が、何も言わずに小さな皿を一枚置いた。そこには、茹でた魚が少しだけ載っていた。「猫用?」アンナが尋ねると、女性は頷いた。それだけだった。

 食事のあいだ、誰も話さなかった。外では、路面電車がゆっくり通り過ぎていった。窓ガラスがわずかに震えた。リュカはコーヒーを飲みながら、店の壁を眺めていた。「映画の中と同じだね」「映画の中だからね」アンナはそう答えた。リュカは少し考えた。そのとき、トキオが小さく鳴いた。

 会計を済ませると、店を出た。「また来られるかな」リュカが言った。アンナは答えなかった。ただ、腕の中の猫を少し抱き直した。しばらくしてアンナが振り返ると、そこにはもうレストランがなかった。黒い壁も、古い扉も、何もない。あるのは、最初からそこにあったような、何もない建物の壁だけだった。「写真、撮っておけばよかったね」

 リュカはポケットからカメラを取り出した。そして、二人と猫の後ろに残った暗い壁を一枚だけ撮った。シャッターの音が、誰もいない通りに響いた。

 一週間後、現像から上がった写真には、アンナとリュカ、トキオの後ろに「Ravintola Työ」が写っていた。レストランの二人は、たしかにイロナとラウリだった。

▼ この物語に登場する映画
『浮き雲』(1996年/監督:アキ・カウリスマキ)

※ 現実にある出来事や映画、モノゴトから生まれた架空の物語です。物語とともに、お店の世界観や登場人物たちのコーディネートもあわせてお楽しみください。

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