CINÉMONO vol.8
シネモノガタリ 22 August 2026
コットンテール
(アンナ)帽子/
Fog Linen Work、シャツ・パンツ/
Napron
アンナには、少し変わった家系図がある。母方の祖父はインドからイギリスへ渡り、祖母はポーランドからやってきた。二人の娘である母と、日本人の父とのあいだに生まれたアンナは、どこの国の人間なのかと訊かれるたび、答えに少し迷った。国籍なら簡単なのに、ルーツという言葉になると、地図の上では線を引けない場所が増えていく。
ある日、アンナは母の古い話のなかに、湖水地方という名前を見つけた。祖父が若い頃、一時期そこで羊の仕事をしていたらしい。羊飼いだった、と母は言った。けれど、それ以上のことは誰も知らなかった。どの谷だったのか、どの湖のほとりだったのか、なぜインドを離れた人が、イギリスの北西部で羊を追っていたのか。アンナにとって湖水地方は、まだ行ったことのない土地でありながら、なぜか記憶の奥にある風景だった。
その数日前、アンナはリュカと映画『コットンテール』を観た。映画館を出ると、雨上がりの路面が街灯をぼんやり映していた。映画の余韻を話しながら歩いているうち、二人はLIFETIMEに立ち寄った。そこでアンナは、ビオードスモックを手に取った。新品なのに、なぜか懐かしく感じた。試着すると、それは服というより、まだ名前のついていない土地へ向かうための道具のように感じられた。
「君のための服みたいだね」とリュカが言った。アンナは鏡の中の自分を見た。インドの祖父とポーランドの祖母、日本人の父。その全部がこの服のなかにあるような気がしたわけではない。ただ、どこか遠いところから続いてきた時間が、白い布の上で一度だけ重なったようだった。結局、そのビオードスモックを買った。帰り道、アンナは映画の話をしながら、湖の話をした。
その夜、アンナは夢を見た。緑の斜面を、何十もの羊が走っている。アンナも走っている。手には長い牧杖があり、遠くには湖が光っていた。風が強く、帽子のつばが何度も持ち上がる。それでもなぜか楽しかった。羊を追いかけているのか、羊に追いかけられているのかも分からない。ただ、谷の向こうから誰かが笑っている声が聞こえた。
目を覚ますと、ビオードスモックが椅子に掛かっていた。朝の光が布を透かし、白い影を床に落としている。アンナはそれを見て、夢の中の風景を思い出した。そしてふと思った。服は、行ったことのない場所の記憶まで呼び起こすことがあるのかもしれない。映画もそうだ。誰かの人生を眺めているうち、自分の知らない過去がこちらへ近づいてくる。
※ 現実をもとにした架空の物語です。アンナとリュカは、今日もオンラインショップのどこかで活動しています。
Anna(アンナ)
43歳/160cm/56kg/脚本家/京都在住
インドからイギリスへ移住した祖父とポーランド人の祖母を持つ母と、日本人の父との間に生まれる。京都を拠点に脚本を書きながら、ドキュメンタリーや短編映像、ミュージックビデオなどの制作にも携わっている。人や街の何気ない瞬間を捉えることが好きで、特別な出来事よりも、日常の中にある光や音、表情に惹かれる。脚本を書くときには、物語だけでなく、その場の空気や映像まで自然と思い浮かべているという。流行よりも、ベーシックなものを長く愛用しており、自分の生活に自然と馴染むものを好む。京都で暮らすようになってから、撮影モデルとしてLIFETIMEに通うのが日課になっている。
Lucas(リュカ)
41歳/172cm/65kg/音楽家/京都在住
モロッコからフランスへ移住した祖母とフランス人の祖父を持つ父と、日本人の母との間に生まれる。京都で暮らしながら、ロック、テクノ、ジャズを融合させた環境音楽を制作している。音楽家としての活動はインターネット上に限られ、匿名のアーティスト名義で作品を発表している。海外にも熱心なリスナーがいるが、実際に彼の正体を知る人はほとんどいない。普段は穏やかで物静か。1950年代から1970年代に生まれたものや、その時代の空気を感じさせるものに惹かれる。服だけでなく、家具や道具、音楽に至るまで、そこに残る時代の匂いや佇まいを好む。制作の合間にLIFETIMEへ撮影モデルとして通っている。