CINÉMONO(シネモノガタリ)第八話「コットンテール」

CINÉMONO(シネモノガタリ)第八話「コットンテール」

 アンナには、少し変わった家系図がある。母方の祖父はインドからイギリスへ渡り、祖母はポーランドからやってきた。二人の娘である母と、日本人の父とのあいだに生まれたアンナは、どこの国の人間なのかと訊かれるたび、答えに少し迷った。国籍なら簡単なのに、ルーツという言葉になると、地図の上では線を引けない場所が増えていく。

 ある日、アンナは母の古い話のなかに、湖水地方という名前を見つけた。祖父が若い頃、一時期そこで羊の仕事をしていたらしい。羊飼いだった、と母は言った。けれど、それ以上のことは誰も知らなかった。どの谷だったのか、どの湖のほとりだったのか、なぜインドを離れた人が、イギリスの北西部で羊を追っていたのか。アンナにとって湖水地方は、まだ行ったことのない土地でありながら、なぜか記憶の奥にある風景だった。

 その数日前、アンナはリュカと映画『コットンテール』を観た。映画館を出ると、雨上がりの路面が街灯をぼんやり映していた。映画の余韻を話しながら歩いているうち、二人はLIFETIMEに立ち寄った。そこでアンナは、ビオードスモックを手に取った。新品なのに、なぜか懐かしく感じた。試着すると、それは服というより、まだ名前のついていない土地へ向かうための道具のように感じられた。

 「君のための服みたいだね」とリュカが言った。アンナは鏡の中の自分を見た。インドの祖父とポーランドの祖母、日本人の父。その全部がこの服のなかにあるような気がしたわけではない。ただ、どこか遠いところから続いてきた時間が、白い布の上で一度だけ重なったようだった。結局、そのビオードスモックを買った。帰り道、アンナは映画の話をしながら、湖の話をした。

 その夜、アンナは夢を見た。緑の斜面を、何十もの羊が走っている。アンナも走っている。手には長い牧杖があり、遠くには湖が光っていた。風が強く、帽子のつばが何度も持ち上がる。それでもなぜか楽しかった。羊を追いかけているのか、羊に追いかけられているのかも分からない。ただ、谷の向こうから誰かが笑っている声が聞こえた。

 目を覚ますと、ビオードスモックが椅子に掛かっていた。朝の光が布を透かし、白い影を床に落としている。アンナはそれを見て、夢の中の風景を思い出した。そしてふと思った。服は、行ったことのない場所の記憶まで呼び起こすことがあるのかもしれない。映画もそうだ。誰かの人生を眺めているうち、自分の知らない過去がこちらへ近づいてくる。

▼ この物語に登場する映画
『コットンテール』(2023年/監督:パトリック・ディキンソン)

※ 現実にある出来事や映画、モノゴトから生まれた架空の物語です。物語とともに、お店の世界観や登場人物たちのコーディネートもあわせてお楽しみください。

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